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May 11, 2005

「インフィル」再考(14)

気ままに書いている「スケルトン&インフィル」の続きです。

話しは少し飛んでしまいますが、宮崎駿監督の「ハウルの動く城」が遂に観客動員1500万人を突破しロングヒットを記録している様子です。また、既に6月より欧米をはじめ世界中で上映されることが決定していますが、国際的なその反響は、実に楽しみです。というのは、実は私は「スケルトン&インフィル」の本質を示していると感じているからです。

「ハウルの動く城」では扉のルーレット状のベルは、その色によって扉の向こう側が違うシチュエーションとなります。そのベルというかハンドルの色はその時に状況によって異なりますが、その色はハウルやソフィーの気持ちを示しているのではないでしょうか?気持ちは、その時の精神状況やものの考え方、意欲等によって異なります。

扉を開けるのは自分自身であり、その時の気持ち次第でいろんな場面に遭遇します。場面の遭遇の仕方は、自身の気持ちや意思次第で異なります。「インフィル」=気持ちであり、「スケルトン」=扉のそとの場面を示しているのではないでしょうか?
そして、その扉のシチュエーションの中でも自分の気持ちや意思の持ち方で行動の結果が異なります。

気持ちの持ち方ひとつで、行動力や立向かっているものについての結果が異なる様に、個々人自身が抱くが熱い想いがライフスタイルや人生観も変わることを宮崎駿監督は強く問いかけているのではないでしょうか。

ハウルの城は勝手に動いているのではなくて、そこに住むハウルやソフィーの想いによって動かされているのです。

ですから、ハウルの城がバラバラに分解しはじめても動いていたのは、もうそこに主人公ソフィーの堅い意思によって生まれた行動力があったからではないでしょうか。気持ちの入れ替えで自身の行動に変化が現れてきたとき、ソフィーの姿が世話好きの90歳のおばあさんにあったり、ハウルに恋する18歳の乙女になったり、マルクルの母親代わりの姿になったりしていたのではないでしょうか。それを言葉ではなく巧みに宮崎駿監督はアニメで描いている気が致します。

前に示したように、私は『ヒトの場合、自分自身の体を「スケルトン」と捕らえるならば、精神や思想、発想力、意欲等は「インフィル」であるといえるのでは?』と考えています。それを抽象的写実によって描いているのが「ハウルの城」だと思えてまりません。
(つづく)

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